自転車と家族の日記

My Life with bicycle

谷町筋の寺院など

朝仕事,昼会議のパターン.

会議の帰りは,谷町筋を通って帰る.
ここは大阪の上町台地上を南北に走る道で,北は天満橋,南は天王寺に至る.

道に沿って寺院が多い.谷町7~8丁目付近は日蓮宗の寺院ばっかりだった.
何か理由があるのだろうか?

日蓮宗 正覚寺(しょうがくじ)
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妙光寺
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このビルは海寳寺(かいほうじ)
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金色の仏像が寝ている.涅槃仏というらしい.
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釈迦が入滅するときの像とのこと.

手元の本によると,最澄が中国からもたらした天台宗の中にはたくさんの経典があった.
そのうち最上位の物が法華経で,その教えだけを真実とし,他の経典は否定すべきだと考えたのが日蓮.
南無妙法蓮華経と唱える宗派ですな.
言わば大乗仏教の原理主義?とでも言うのでしょうか?

※創価学会は日蓮宗から分かれた日蓮正宗を母体にしたもの.

谷町筋の東は上町筋だが,ここには浄土真宗の寺があった.
その常満寺の掲示板には良いこと書いてあった.
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浄土真宗は親鸞さんだけど,浄土宗から分かれたもの.

浄土宗は念仏を唱えることで死後は輪廻で極楽浄土に行ける.
そこには阿弥陀如来がいて,解脱を助けてくれる..みたいなことだったと思う.
だから南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)と唱える.

浄土真宗はさらにそれを進めて,南無阿弥陀仏と唱えることができるのは,既に阿弥陀仏への感謝の気持ちがあるからで,極楽浄土が約束されているからだと考える.つまり,南無阿弥陀仏と声に出したり,心に思ったりすることができれば,即ち極楽浄土,,っていうゆるーい宗派です.

なお,信者数は浄土真宗が1位.これは主に西本願寺を総本山とするヒエラルキーを作ってる.
2位は浄土宗で,3位は東本願寺を頂点とする浄土真宗の一派,真宗大谷派,4位が真言宗,5位が日蓮宗とのこと.

うーむ,わたしは断然浄土真宗ですな.ゆるいの好きなんで.
ってみんな思うから浄土真宗が一番多いのでしょうね.

雰囲気は高野山が一番ですが.
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  1. 2013年07月18日 22:15 |
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河内堅上の弁財天

河内堅上駅
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駅から少し東に行ったところに,山へ上って行く階段がある.
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古びた看板には,弁辨天(弁才天)参道と書いてある.

参道を上ってみる.猛烈に荒れてます.
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少し上ると,岩に小屋がくっついている.
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小屋の中に祠があった.荒れ果ててるので写真なし.

弁財天というと,そもそも仏教の守護神の女神だったが,神仏習合の波で神様としての崇められるようになった.
そのうち弁才天⇒弁財天となって,七福神の中の財宝の神とされるようになる.
だからきらびやかな服を着てるんですね.

しかし,この岩がなぜ弁財天とされているのかは謎だ.地元には何かの謂れが伝わっているのだろうか?

岩が神になるというのは,熊野の神倉神社にあるゴトビキ岩が有名だ.
以前に何かで聞いたのは
⇒こんな高いところに岩があるのは,ヒトの力では無理だ.
⇒神様がのせたに違いない.
⇒ということは,岩のところには大昔に神が来たはずだ.
⇒岩を神として祀ろう.

という論法だったと思う.
確かにここも,何でこんなところに?って感じで岩が鎮座している.
  1. 2013年04月20日 22:26 |
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奈良街道 亀瀬越

その昔,難波から奈良までの街道が何本かあって、奈良街道と呼ばれていたらしい。

一番古くからあるのは竹内街道で、二上山の南を越える道。

その北にあるのが、平野から八尾、柏原市の大和川沿いを奈良まで行く道で、亀瀬越えルートと呼ばれていたとのこと。ちょっとだけレポート。

柏原市の国分地区。国道25号から国分本町に入った辺り。旧街道のメインストリートです。
ここから西へ向かいます。
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古い大きな家が残っている。
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上り坂を上りきると、道標が。右に行くと長尾街道で、当麻から吉野まで続く。
まっすぐ行くのが龍田、信貴山から奈良へ行くルート。
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国分神社の横を通ります。
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大きな古い木はエノキです。街道沿いに植えられたとのこと。

JTEKTの工場横を通る。ここにもエノキの木がある。
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国道25号を少し西に行くと吊橋がある。
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昔はここに夏目茶屋の渡しという、渡し舟があったらしいです。
自転車で渡ってみるとかなりの高度感。結構恐い。

渡りきったところは市民球場になっています。ここを右へ
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陸橋でJR大和路線を越えます。
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畑の中の道
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JR河内堅上駅横
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大和川を右手に見ながら西へ
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峠地区の集落
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古い石垣がありますね。いつの時代のだろ?
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左への分岐が見えてきました。
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分岐にあるのは峠八幡神社
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ここを山側に上っていくと、雁多尾畑の光徳寺へ行くらしい。
今度はここを探検してみようか。
  1. 2013年04月12日 21:44 |
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大阪歴史博物館 難波宮

大阪歴史博物館に行ってきた。仕事場からクルマで45分くらい。意外に近い。

難波宮(なにわのみや)を勉強するためです。

展示室の解説からメモ書き。

2000年前までは地球温暖化の影響で海水面が高く、その後徐々に下がってきたが、当時の大阪市の大部分はまだ海の下にあった。

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難波宮があるところ(赤丸)は上町台地の北の端で、海外からの船が着く場所だったようだ。
河内湖から大和川経由で飛鳥まで、物資を運ぶことも容易だったでしょう。

なお、難波堀江は人工の運河で、仁徳天皇が作ったという説があるらしい。
堀江の途中に難波津(なにわつ)があり、当時の重要な港湾施設だった。

難波宮は港湾施設の近傍にあったわけで、今の立地とは随分と印象が違ったわけですな。

1、前期難波宮

645年に蘇我氏を滅ぼしたことから始まる大化の改新で、孝徳天皇が即位し、飛鳥から難波へ都が移されることになった。

652年に完成したのが前期難波宮。
ところが、中大兄皇子はその翌年、孝徳天皇と不仲になり、飛鳥に帰ってしまった。

654年に孝徳天皇が亡くなった。ここまで難波が都だったということになる。

その後、斉明天皇の時代を経て天智天皇(中大兄皇子)が即位した。都は飛鳥。

663年に白村江の戦いでボロ負けした後、667年に都が大津に移される。

672年の壬申の乱で天武天皇が即位すると、683年には難波宮を副都とした。
が、686年に難波宮が火事で焼けてしまう。ここで前期が終了。


2、後期難波宮

後期は平城京の聖武天皇の時代。

726年に難波宮の再建が開始される。

740年に藤原広嗣の乱の後、恭仁京(くにきょう)へ遷都されるが、

744年に難波宮を都とするように詔が出される。その直後に紫香楽宮/信楽宮(しがらきのみや)へ

745年には平城京へ都が戻される。

784年には平城京から長岡京へ遷都される。
 その際に難波宮の建物は解体され、淀川を使って舟で運び、長岡京で建て直したとのこと。

当時の都の位置関係はこれ
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難波宮には海から直接入ることができた。白村江の戦いで唐や新羅の海軍力を脅威に思った当時の人たちが、奈良や大津に都を作ったのは国防の意味からなのか?

昨年にプチ探検した難波宮の大極殿(だいごくでん)跡
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歴史博物館の上から見ると
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博物館の中には大極殿が再現されている。
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大極殿は前期難波宮にはなかったもので、天皇の権威を高めようとした天武天皇が飛鳥浄御原宮に作ったのが最初。

だから藤原京以後の都には大極殿が設置されているらしい。天武天皇以前は天皇は大王って呼ばれていた。
大極殿は、天皇をより神格化するために作られた建物なんだろう。

↓こちらは以前に行った平城京の大極殿の復元。難波宮よりも立派になってる。
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  1. 2013年04月06日 22:13 |
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東寺

なんか、あちこち行ったので記事がたまった。

京都と言えば平安京。
平城京から長岡京⇒平安京に遷都されたのが794年。
泣くよウグイス平安京ですな。

泣くよ坊さん平安京という語呂合わせもある。
そもそも平城京から平安京に遷都したのは、奈良の寺院があまりに強くなってしまったからとのこと。

そこで桓武天皇が遷都したとき、奈良の寺が移転してくるのを禁止したらしい。
私寺の建立も禁止され、羅城門の左右に東寺と西寺と言う2つの官寺を建て、それ以外の仏教寺院は認めなかった。

要するに東寺は国営の寺院だったわけだけど、空海は朝廷の信頼を得ていたので、823年に東寺を貰いうけたということらしい。

十条駅前のパーキングにクルマを止めていく。京都駅周辺は高いですからね。
少し離れれば、駐車場代がとっても安くなる。1日止めて600円だった。
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少し走れば東寺です。横は何度も通ったことがある。
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南大門。東寺の中に入るのは初めてです。ドキドキ
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桜で良い雰囲気です。平安時代みたい。
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ぜんざい、500円。まー、こんなもんだろ~、雰囲気料ですな。
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五重の塔。日本一の高さとのこと
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金堂
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中には薬師如来が

講堂
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講堂はもともとは空海さんが建てたんですね。
ここに有名な立体曼荼羅の像がある。中心が大日如来。
金堂より講堂が最重要の建物だったようです。最も密教っぽいところ。

食堂
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食堂は“じきどう”と読むらしい。昭和5年に火災で焼失したとのこと。
中に焼け焦げた四天王が飾ってある。その惨さに唖然。

やはり空海さんは大したもんです。仏教界最大のヒーローでしょう。
次は高野山に行ってみよう。
  1. 2013年04月02日 21:48 |
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古事記ゆかりの地 仁徳天皇稜

ちょっと前の話。
世界最大の墓、仁徳天皇稜に行ってきた。

大和川を西に、JR阪和線に沿って南下すると、中央環状線にぶつかる。

そこで、小山が見えてくる。
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近寄ってみると、仁徳天皇稜と書いてあった。あまりに大きくて、山にしか見えません。
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古墳の周りに遊歩道が。グルッと周って3Km弱らしいです。正面までの距離が分かるようにしてくれている。
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さて、ここは左回りに。写真は一番外側の堀です。
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正面の排所
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NPOのガイドの人が数名いて、解説してくれた。

昔の大阪の地図。
赤が仁徳天皇稜、緑が応神天皇稜、黄色が現桜井市にある箸墓古墳。
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古い順番に、飛鳥から都を離れて海に近いところに作られている。

最初は都の近くに墓を作るしかなかった。人材の確保とか、材料の確保なんかは近い方が良いに違いない。
それが徐々に海の方に出てきて、仁徳天皇稜になれば当時の海沿いになった。

古墳って、今は単なる小山に見えるけど、作られたときは石が敷き詰められて、埴輪も飾ってあったはず。
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仁徳天皇稜はピラミッドよりも大きな構造物に見えただろう。
外国から船が来て、飛鳥に行くときに仁徳天皇稜が見える。
当時の外国に、倭国が立派な技術を持った国ってのを示したかったのかもしれませんね。
  1. 2013年03月26日 22:37 |
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平城京

2010年は平城遷都1300年ですな。
奈良で平城遷都1300年祭が行われたそうな。

さて、最近歴史に凝ってます。が、わたし、日本史が大の苦手で、中学時代は苦労した。
ああいう覚える勉強って全くダメです。
ちなみに大学入試は地理と倫理社会を選択。日本史には一生縁がないだろうって思ってた。

しかし、年とったからか?最近はにわかに興味が出てきた。

中学で日本史の勉強したのは30年前ですが、そこから歴史学も進歩してます。
新しい発見が多々あったのでしょう。
史実と史実の間の細かいエピソードも明らかになって、ストーリーが分かり易くなってます。

わたしの歴史の勉強方法ですが

まずはマンガから入ります。
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このシリーズ、とっても良くできている。

次に、NHKオンデマンドで、その時代の番組を見る。
今日は藤原仲麻呂の乱の番組を見てみた。
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これも実に分かり易い。色んなことが分かってますね~

それじゃ、平城京に行ってみようと、、、昼からお出かけ。

遷都祭で大きな駐車場が出来ている。平城京跡は広いので、自転車で周ることに。
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この一体は世界遺産になってるらしい。
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朱雀門
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朱雀門の北側に平城があった。

南は朱雀大路という大きな道路が南北に走ってる。
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はるか向こうに、平城京の入り口、羅城門が見えたはず。

朱雀門から北方面。
北の端の建物がある辺りが第一次大極殿(だいこくでん)、その南に朝堂院があった。

広いですね。真ん中を近鉄電車が走ってる。
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ここが平城京の中で最も重要な場所で、国の政策を決め、元日や節句の儀式を行い、外国からの使節をもてなす宴会が催されたりした。この時、天皇が座るのが北の端の大極殿、臣下は南の朝堂院に並んだとのこと。

大極殿の建物は2010年に復元されたもの。
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当時の生活を想像すると楽しい。


ところで、奈良の都を称える歌で

あをに(青丹)よし ならの都は さく花の
  にほふがごとく 今さかりなり

とあります。

テレビドラマであった“あをによし”とは、ここから来たものだったんですね。

手元のマンガでは、「青い屋根瓦と朱塗りの柱がかがやく」の意味だとのこと。

昔の平城京は、結構派手派手な色彩だったようです。
  1. 2013年03月25日 20:06 |
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古事記ゆかりの地 応神天皇稜

応神天皇は15代天皇で、朝鮮に出兵した神功皇后が九州に帰ってきたときに生まれたとのこと。
※当時は天皇じゃなくって大王と呼ばれてた。天皇は天武天皇から。

応神天皇の時代は国内は平和だったけど、朝鮮半島は戦乱で、高句麗、新羅が百済を攻めていた。
そのため、日本に多数の渡来人が逃げてきたとのこと。要するに難民ですな。

応神天皇の墓とされているのが、大阪府羽曳野市にある誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)。
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応神天皇稜
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応神天皇は日本で最も祀られている人だ。
と言うのも、全国にある八幡宮が祀ってる八幡神(やはたのかみ)が応神天皇とされているから。

古墳の南側にも誉田八幡宮がある。ここが日本最古の八幡宮らしい。
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しかし総本社はなぜか大分県?不思議だ。

応神天皇稜の西に、仁徳天皇稜がある。
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さて、応神天皇は実在したんだろうか?誰にも分からないってのが真実だと思うけど。
この古墳は5世紀はじめに作られたらしいけど、ものすごく大きい。
体積なら仁徳天皇稜より大きいと書いてあった。

土を運ぶだけで、ものすごい仕事量だったはず。
当時、相当力のあった豪族であったのは間違いないようです。
  1. 2013年03月11日 22:54 |
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古事記ゆかりの地 ヤマトタケル

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先日上った伊吹山の山頂にヤマトタケルの像がある.
写真を見ると、かろうじて写ってた。(右端の。)

ヤマトタケルは十二代景行天皇の息子とされている。古事記最大のヒーローかも。
西に遠征して、クマソを征伐、その後柊の矛を渡されて、東国へ。
途中で草薙の剣を手に入れる。

東国を征伐した帰り、伊吹山の神と戦ったとき、神の怒りに触れ、病気になってしまう。
都に帰る途中で病死し、白鳥になったとのこと。

各地に白鳥になったヤマトタケルの飛来伝説がありますね。

ところで、このヤマトタケルの像、ものすごく変。
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百名山の深田久弥さんが、「申し訳ないほど、みっともない」と書いたとか。

昼からポタリングで堺市の仁徳天皇稜へ行ってきた。
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さて、明日は天気が悪そう。山に行けるか?
  1. 2013年03月09日 22:20 |
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古事記ゆかりの地3 神武天皇

最近、プチブームの古事記。

天照大神の子孫、ウミヒコ、ヤマヒコの物語は宮崎の青島でした。過去記事

ヤマヒコが海神国で結婚したトヨタマビメとの間にできた息子と、トヨタマビメの妹が結婚し、4人の子どもを生んだ。その末っ子が後の神武天皇となる。

神武天皇は九州から東に遠征し、大阪で苦戦、熊野まで行って再上陸する。

この時に道案内してくれたのが八咫烏(やたがらす)。

高見山の山頂にある高角神社は八咫烏を祀ったもの。
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さらに高見山には国見岩というのがある。
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神武天皇は熊野から伊勢経由で高見山まで戻ってきて、この岩に上って宇陀の敵を視察し、第一回目の軍事評定をしたと伝えられている。

大和を平定した神武天皇は、奈良の橿原の地で都を作る。
それが橿原神宮のルーツ
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137歳で亡くなったのだが、橿原神宮の横に埋葬された。
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神武天皇は紀元前600~700年頃の人物とされる.

ただ,古事記や日本書紀が書かれたのはその1000年後の天武天皇の時代.
当時は情報伝達は伝聞でしかなかったわけで,正確な情報があったとは考えられない.

また,天武天皇はものすごく中央集権化を進めた人で,古事記や日本書紀は皇室統治の正当性を示すのが目的だったろう.
ということは,作られた歴史というのがホントのとこなのか.
現在でさえ歴史って自国都合で作られてますからね.

そう考えちゃうとちと面白くないが...


本日の自転車

自転車通勤 往路のみ

最もお気に入りのRNC3
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Fディレーラーの動きが渋い。しばらく置きっぱなしだったからかな?
  1. 2013年03月07日 21:54 |
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